昭和43年07月24日 朝の御理解
今朝の御祈念の時に「しっかり信心の帯をせよ」ということを頂きますが、しっかり信心の帯、信心の帯をするということは、どういうことであろうかと。しっかり信心の帯をするということは、どういう帯をすることが信心の帯になるのだろうか、そんなんに思いましたから、そのことを思わせて頂いとりましたら。御心眼に、ちょうど女の方が喪服の時に使います真っ黒い帯ですね、あの帯をそれは喪服じゃないんですよ。
それを黒い帯をきちっとしめ上げるようにして、しめておられる姿を頂きました。「しっかり信心の帯をせよ」とこう仰る。例えばどんなに素晴らしい着物を着ておりましても、それがあの腰ひも一つであったりしたんでは、もうどんなにその良い着物であっても、それは良い信心、よい信心の性格、と言ったようなものを持っておりましてもですね、帯がしっかりしめ上げられてなかったら、値打ちがないように、いやむしろだらしがないような感じである。そこでこの教典を頂きましたら、四十七節を頂きます。
今日は、この四十七節の御理解を頂くんではなくて、この四十七節から頂いたヒントです。ね、これから頂いたヒントを、皆さんに聞いて頂く。だからあのしっかり、信心の帯をせよというヒントを頂いた、そのことをこの中から頂きたい。まあ、四十七節を読んでみますとこうあります。「祈れ薬れにすればおかげも早い、が薬れ祈れにするからおかげにならぬ」だからこれの御理解、これの御神意は、ま、このままにしてですね、これから頂いたヒントです。
いわゆる私が頂きます、信心の帯をせよと仰る。しっかり信心の帯をせよと仰るが、その信心の帯とは、どういう帯であろうかと思うたら、いわゆる真っ黒い帯をきりっと、きちっとしめ上げておるところを頂いた。そこで私は、ここの四十七節から、祈れ薬れにすればと言うところをですね、この薬れという字の、この薬という字の草冠ですかね、草冠を取ると楽という字になります。ね。
楽でもね、やはり私は楽は必要なんです。楽もさしてもらわなきゃいけん。その楽の最大なものが極楽、もう楽のきわめ。ね、だから私共が信心させて頂いて願わなければならないものはその極楽。ね、そこで、その極楽を頂く為にはね、この自然、ね、草冠は自然とこう、成り行きともいう。祈れというのはここの場合修行、ね、信心修行によって、ね、与えられる楽、恵まれたところの楽。ね。
その恵まれたところの楽ならば、これはおかげも早いがという、おかげが頂けるがということ。ね、それを祈れをせずに唯「薬れ祈れ」にするから、さかさまになるからおかげにならぬ。ね、薬れ祈れにするからおかげにならん。早く楽になりたい楽になりたいその楽になりたいと言うこと。そういう思いが先にでるからおかげにならん。ここにねおかげにならぬとこう断言的におっしゃてあるのは言葉を強調する為です。
例えば「祈れ薬れ」にせんでも「薬れ祈れ」にしておっても、おかげは受けておりますでしょうが。けれども、その後のおかげにならんしね。ここでは、あのここんところをま、薬れ祈れにするからおかげにならん、またはおかげになると言うふうに断言的に仰っているのはね、そのおかげになる、なるだろうといったような、その表現を致したんではでは、なるだろうではいけんでしょうが。
おかげになるおかげになると思います、じゃいけんでしょうおかげになります、と頂いて始めて腹が決まる様に教祖はそういう意味合いでね、あらゆる所にこういう言葉を使っておられますね。その事を強調される、そのまいっちょ向うにはもっと大きなひとつの動かない、信念をもっておいでられての事でありましょうけどね。薬れ祈れにするからおかげにならんとこうそこに強調して言っておられる。ね。、
楽がしたい楽がしたいと云うて、信心をするから、ああ、いつ迄参らんならんじゃろうかという事になってくるのですよ。ね、もう何年間も信心しよるが、ということになってくるのですよ。ね、ところが薬れ、祈れ、ね、いわゆる薬れという字を、楽という字に一応頂き、置き換え、でその自然、草冠と楽という字を別々に考えて、ね、ここでいつもよく頂きますように、お互い信心をさせて頂くものはですね、この楽はせんぞという気持ち、ね、自分から求めて楽はせんぞと。
私あの今日信心の帯をせよというのは、そういう心ばえというか、そういう心がけのことだと思う。楽はせんぞという心。ね、楽はさせてもらえと。楽はさせていただけと仰る。自分がするのじゃない、させて頂くのだ。ね、温泉行きもよかろう、ね、映画に行くともよかろう、お芝居を見に行くのもよかろう、ね、一家をあげてレジャーもいいだろう。ね、けれどもそういうたとえばひとつの楽といった様なものがね、自分がするのじゃない、させて頂くのだ。
いやそこにはねさせなければおかんという働きが必ずある。そういう楽であって万事万端の上に御都合か頂けるお繰り合わせが頂け、ね、本当に今日は極楽じゃったという様な楽になるんです。自分が計画して自分が楽をしようとする。さぁ一ちょ何日間働いといてから、さ何日後には温泉に行く事を目的で働いておる。楽をする為に働いておる。ね、その辺が信心のある者と無い者の考え方が非常に違ってくる所ですかね。
自分から求めて、楽はしょうなどとは思いませんと言うのである。これはあの自分の信心の修行の姿と云うものがですね、ま、いうならば本気で、信心を求めておる時というかね、本気で火の玉の様に、修行の心に神様に向かっておる時です、もうその馬鹿らしいです。ところが信心が薄かったり、修行精神がなかったりすると、もう楽な方へ楽な方へとその心が動いていく。ね、
だから二つ並べて、さあ、右にしたがよいか左にしたがよいかというときには、自分が分の悪か方、きつい方をとらして頂くような心持ちが大事なんだ。これはま、いうなれば、ね、大きな慾というかもしれません。仕方もない楽じゃなくて極楽をめざすという事なんだから、信心とはそれなんです。信心の究極のところはそれなんです。ね、神様もその極楽の生活をさせていのが神の願いなんだ。
極楽というこれは仏教の言葉ですけれどもですよ、同じ事。ね、ま、仏教ではあの世に極楽と言ったようなことを申しますけれども金光教の信心は、私はこの世で極楽にいけれるおかげを頂かなきゃいけん。それにはいつも、私共の心の中に「楽はせんぞ」と云った様な修行精神。そういう私は心を、ね、信心の帯をせよと仰るのはそういうことだとこう。信心の帯をしっかりする。
黒の帯というのはやはりこの修行の帯というのでしょうね。苦労まあ信心のない人がよぶ場合は、まあ御苦労な事この朝の早いまたこの暑いのに合楽、合楽ちゅうてみんな参りござるが、ご苦労なこつといういわゆる苦労と思うわけなんです。けど皆さんはご苦労なこつと思いよらんでしょう。ね、苦労だけれどもそれを修行と頂いていきよるでしょう。ね、苦労というのは苦労する、という苦労に通じるだろうと。
黒の帯という、黒の帯というのはとは。ならその黒の帯とは、ね、信心の帯をしっかりせよということは、楽はせんぞと言うことだとこう思う。そういう楽はせんぞといったような信心から、ならどういうようなものが生まれてくるか。まず第一のおかげはどういうようなおかげが現れてくるか。楽はせんぞという気になったら。ね、「有難し、今みかげをよ」という心が生まれてまいります。有難し、ね。
今こそ身におかげがつきよるときだ、いまこそ信心の力が身についておる時だ。今こそ徳を受けておる時だという、これが実感としてです「有難し、今みかげをよ」という心が生まれてくる。ね、楽はせんぞという気になったら。次にはね、「いつもまめなのが有難し」という事が分かってくる。痛い痒いが治ったのが有難いのじゃない、ね、難儀な問題が成就したから有難いのじゃない。ね。
「いつもまめなのが有難い」いつもまめなのが有難いということが分かってくる。広大なおかげを頂きましてという時よりもです、ね、普通むしろ今まで気が付かなかった事の中に広大無辺のおかげのある事が分かってくる。自分の周囲はおかげの中に浸っておる自分である事が分かってくる。あれもおかげである、これもおかげであるという事が分かってくる。ね、いつもまめなのが有難い。
次にはね、「人の難儀を助けるのが有難い」と分かってくる。ですから、そういう様な事が分かっていきよらんとするならですね、お互いの修行は修行しよっても、だらっとした帯をしとるとか、腰ひも一本、性格的にあの人はよか信心、性格的にはほんとにいい人だ。あの人にほんとに信心が出けたら鬼に金棒だろうと、例えばいうような人柄がありますよね。例えばだからそれは良い着物を着とるようなものであって、腰ひも一本でおるようなもんですからだらしがない。
そういうもので例えば今私が申しますような三つの有難いと言った様なものは生まれてこない。楽はせんぞと、ね。ここんところを皆さん間違えちゃなりませんよね。今私が申しましたよう、に楽はせんぞという気になるとですね、実をいうたら神様はさせにゃおかんと言う様な働きが、必ず始まってくるんですよ。もうおりゃ食べんぞと言う事になるとですね、もう食べさせにゃおかんという働きが始まってくるです。
もういらんという気になるとですね、もうやらにゃおかんという、そういう天地の中には一つの、いわゆる法則とでも申しますかね、そういうシステムがある。ね、それは盥の水を向こうへこうやっておしゃ、逃げてしまうでしょう。これ違うですね、向こうへ押せばこちらにかえってくるような道理です。引けば、何ぼでも向こうのほうに逃げてしまうようなもんです。
昨日、おととい、一昨日でしたね、福岡の高橋さんが、ちょうどあのあんな大変な事故に会われてから八年間になる。毎年この七月の二十二日の日は、もう自分が、新たに命をいただいた日として。いわゆる神恩報謝の思いを、改めて頂かれる日のようになって毎年。昨日、おとといもちょうど二十二日、二十三日の月次祭のために二十二日に前の日にお供えを持っていつも参って見えておった。
あの当時、そのお供えを持って帰りに朝事故にあわれた。昨日おとといも、今話が出ておりましたけれども、そうですね、約一年ぐらいは片一方の手が、左の手が、右の手が動かなかったんですかね。だから左の手でま、一切をお初穂を書くでもなんでも、だから一年目ぐらいしよったらですね、もう綺麗に書かれるようになったですね。医者がどうしてもこの何ですか、ここに肩を入れてあるのを、取っちゃならんとこういうわけです、まだ。ま、不自由ながらも、一切をなにもかにも左の手でしよられた。
初めの間は、はよとれにゃもう不自由だ、はよ取れにゃ不自由だとこう思いよったけれども、おかげ頂いて右の手で、うにゃ左の手でもう、何一つ不自由することがなくなってきた。だからもうこっちん手は、一生動かんでんよかと思うた。そげん心のなかに思わせて頂き、ほんとに心の中に思うたら、明くる日、もう高橋さんこれを取っていいですよということになったと。
そんなもんです。いわゆるもう楽はせんぞという気になったらね、もう楽はさせにゃおかんという働きがもうここまで来てると言う事、実をいうたら。楽はせんぞという気になったらすぐおかげば貰われるけんで、と言った様な条件がないと言う事なんだ。そこが信心修行さして頂きよらなければ理屈で分かっても実際そう言う事になって来ない、ね。楽はせんぞと言う様な中には実は楽をさせにゃおかんという働きがあるから、だから楽はせんぞというふうになるというのではいけない事が分かります。
だから私どもはただいま修行中という看板をあげてるようなもんだとまず思わにゃいけん。ね、よくお店やなんか行きますと本日休業といったような看板、あの札がかかっとるでしょう。休業、だからそういう札を掛けとるんだ。ね、私・・?もうあの人誘たっちゃ、もう絶対楽なことは、善導寺の原さんじゃないけれども、近所の婦人会でいつも温泉行きがあるわけです。
けどももうそんな、初めの間は修行と思うて、もう温泉行きは私はいかんと。何年もそれが続けられた。もう実際にね、初めの間はそうでもなかっただろうけれども、段々もう温泉行きなんかて言うことはもうそんな楽しさよりかもっと素晴らしい楽しみが出けてきた。ね、それでもどうでもこうでも行って貰わにやならん、いかせにゃおかんと言った様な働きがその周辺にいつもあっておるということ。
着物でも作らんといや、しゃっちかっち、そんなこつ言わんな作りなさいというて作ってくれる。ね、と言う様にですね、私はそういう私は修行がね、精神の中にね、本気でこう刻み込まれるような信心。ね、楽はせんぞという気に本気でなること。ほうこりゃもう信心するならもう一生楽はでけんていと、がっかりする人があるかも知れませんけれどね。ここではね、してはならんというのではないですよ。ね。
私は言うのは、ほんとにほんとに極楽を感じさせてもらえれる、そしてここにそういう気になったら、ありがたし、今みかげをよという心やら、いつもまめなのが有難い、平穏無事の中にいつも有難いという念が湧いてくる。人の難儀を助けるのが、そりゃそう自分が、ね、自分を犠牲にしてでもです、自分が難儀な思いをしてでも人の難儀が助かることのほうが楽しいと、有難いと言う様な心が湧いて参ります。
そういう心がこれはもう当然おのずと湧いて来る様になって来るんです。もう楽はせんぞという気になったら。この先に極楽があるんです。けどもこの三つの有難いというものをですね、みなさん、実感として頂くようになったら信心の味わいというかね、もうここにある。もうどんなに修業させていただいてもええ、この人がこのようにほんとに助かって下さるなら、もうここに私ども御取次させてもらうものの名利はもうここに尽きるというように思うことがある。ね、
そういう心の状態になるから神様は極楽にやらなければおかん、極楽させなければおかんという気になってくる。ね、自分が楽をしたい楽をしたい、いわばけちな楽ですよ。そして気分の悪い、ま、いうならこりゃ私昔の話いたしますとですたいね、私あのお芝居が好きですから、もう一日お芝居があるというたらもう絶対お芝居に行くことに決めてある。家内も連れて行きますですね、家内も好きなんです。
ですけど二人揃うてじゃけん、そりゃ、もうほんとに楽しいです。ところがこれはもういつものことですけれど帰るごろから悪うなってくる、家内がもの云わんごつなる。腹かいてくる。どういうもんか知らんけれども極楽をした後にはですね、もう地獄のごたある思いどもしよりました私。今から考えてみると自分のしよった、自分がしょうと思う極楽だからその極楽を許されない。
芝居を見ておる間はそれこそ頭がいたかでん、痛さをかんじんぐらいにある。好きにもんば見よるとじゃけん。ところがですね、もう帰りがけから悪い。ね、こげなふうならお前連れちこんほうがよかったちゅうごたあるふうな結果になるんですよ。例えばなら物見遊山で行ってもです、不愉快な思いで帰って、行きがけは楽しみいっぱいで行ったけれども、不愉快な思いで帰ってこなければならなかったというようなこと皆さんもこれに思われた事ありはしませんか。
自分が楽しょうと思うて行った時には、楽はさせんという働きがあるです必ず。先日も善導寺の久保山さんが言うておられました。近所のまあお金持ちの人たちがあの何人か集まってどこどこの温泉に行くという話があって、もうそれこそ楽しゅうしてこたえんごとあるふう。そしてもうとにかく温泉にいっとる時が極楽ですのうや、ちゆうちから話よんなさる。それを聞いてから、ほう私どん極楽にはそれこそ温泉にはいかんけれどいつもが極楽なのにと思うたというのである。
もうその人達は極楽そのいっとる時だけが極楽なんだ。かえってくるともう嫌なオヤジの顔を見らんならん。嫌な嫁ごとまた問題が起こってくる。だから極楽温泉にいっとる間が極楽。ね、信心させて頂くものはね、そうではない温泉に、ね、いつもが極楽なんだ。そういう気持を開かせて頂くというかね、おかげをいただかなきゃいけん。しかも私どもが今日頂きますように楽はせんという気になりゃ、ね。
自分の身は犠牲にしてからでも人が助かることなら、難儀が助かることならばとそれがうれしゅうなってくる。もうすでに神心である。そういうものが育っていくことがもう信心の喜びなんですよ。ね、痛いことがある、歯がゆい思いをすることがある、あ、歯がゆいことじゃと、あ、痛いことじゃと。ね、けれども、はぁ、歯がゆい、やれ今歯がゆい思いをしとるけれども今こそみかげを受けておる時だ、今こそめぐりのおとり祓いを頂いておるときだ。やれ痛や、今みかげをよという心が生まれてくる。
昨夜のご理解じゃないけれども暑いなぁ、けれども有り難いというのである。ね、楽はせんぞという気、心になったらそういう心が生まれてくる。もう楽をしょう楽をしょうと思うたらね、もうその楽というのはもう限りがない。良い着物をお金がたくさんあって作ろうというたら、もう久留米辺りにはなかごとなってくる。もう福岡までいかにゃいけんごとなってくる。
もうしまいにゃ福岡までじゃでけんけん、京都までもいかにゃんごとなってくる。お金が、ね、お金がたくさんあって楽をしょうという気になったら。だから結局どこまで行ったちゃ、楽はないことになるです。そうですよ、ね。ですから手元にあるところの楽を味あわせてもらう。ね、同時に私どもはです、久保山さんの言われるようにその、ね、私ども温泉にいっとる時のようにもう常日頃が極楽だと。
これはいつもまめなのが有難いと分かってきよる証拠。そういうものを身に付けていけれるということが信心なんだ。それにはね、ただ信心しとりますと言う様な信心では頂けるもんじゃない。しっかり信心の帯をせよと仰る。それこそ黒の帯をしっかり締めあげる。そういう信心とは楽はせんぞという気になる。だからちっとはきつかろうばってん、もう今日は昼寝はせんぞと、と例えば一日の中にです。
例えていうならば、そのしょうと思えばでけることでもそれをこちらから・・申し上げるといったような気持ちです。向こうに押しやるような気持ち、その向こうにはです、休みなさい、休みなさいという働きがある。それを受けて休ませてもらう時に初めてはぁ、極楽じゃったということになる。これも私の体験ですけれども、ああ、もう昨日も寝とらじゃった、おとといも休む時間がなかった。
今日はどうでんこうでんはよいっちょ暇作って休まな、と心に思い出しただけでもう必ず休もうかと思いよる時に、もう親先生じゃなからなかならんという人が出てきて休ませなさらん働きがあるです。だからもうこげなこつは思うちゃならんと思う、自分で、ね。ですからね、そういうところを分かって行くと同時に今日みなさんにですね。
しっかり信心の帯をせよということは、もう楽はせんぞという気に本気になって、神様に内向かう。そしてこの三つあげました有難いというようなものがおのずと心の中に頂けてくるようになることを楽しみに信心させてもらう、そういう先にです、ね、これが極楽であろうかというようなおかげが頂けることは間違いがない。
だからその極楽、その楽をね、こうすりゃ楽になるからという条件を抜けて、とにかく本気で信心が分かるということが有難いという信心でですね、信心を分らせてもらうということが有難い。分かるために本気で修行しにゃん、というところの信心をね、ひとつ頂いてもらいたいというふうに思います。
どうぞ。